旧制高等学校の系譜 ~六高記念館~

旧帝大という言葉も死語かもしれない。ましてや旧制高等学校の実態を知る人はどれくらいいるだろう。字ずらそのままに昔の高等学校と考えると大きな誤解を生む。まず、旧制高等学校は男子校である。次に昭和初期の同年代の人数に占める旧制高校進学者は0.3%程度である。いささか乱暴だが、現在のセンター試験受験者が50万人として0.3%とは1,500人にすぎない。恐ろしく狭い門であり、帝大入学を前提とするエリート養成の高等教育機関であったといえる。そして、旧制高等学校の多くは、戦後、大学の礎を担うことになり現在に至っている。

 六高記念館は、旧制第六高等学校の同窓生の遺族から寄贈された遺品を収蔵、公開し、六高の学生生活を伝えている。

 第六高等学校は、現在の岡山大学の前身校のひとつで特に基礎学問である理学部、文学部の源流といえる。現在、岡山大学の本部や理学部等が置かれている津島キャンパスは、旧陸軍第17師団の跡地で、戦後旧陸軍48部隊の駐留軍引き上げにあたり、六高最後の校長であった黒正巌が六高生を動員して占拠、岡山大学の拠点とした場所である。このため、六高の跡地は岡山大学に継承されず現在は岡山県立朝日高等学校になっている。

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岡山県立朝日高等学校

 旧制高等学校の校地を引き継いだ敷地は広大で威風堂々としている。残念ながら昭和20年の空襲で校舎の多くは焼け、現在は書庫と柔道場が現役で使用され当時を物語っている。

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 そんな朝日高等学校の敷地内に六高記念館がある。

 建築費は同窓生等の寄付によったとのこと。中に入ると、当時の写真が掲げられ2階には運動部、特に柔道部を中心としたカップやメダルも見ることができる。1階奥の資料室には、写真を中心に学生生活や学校の歴史がファイルにまとめられ、それとは別に卒業アルバムも見ることができる。書棚には教科書や関連図書も見られる。

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六高記念館正面

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六高記念館玄関

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資料室

 また、壁面には戦没者の遺影が並ぶ。卒業生の進学先は東京帝大と京都帝大が2分していたというが、東京帝大の文科卒業生の戦没者が際立つように感じた。

 戦後、岡山大学の一部としてその系譜を残した六高だが、岡山大学の正門を抜けると右手に理学部、左手に文学部等が連なり、正面の時計台を持つ図書館前に、津島キャンパスに六高を引き継いだ黒正巌銅像が立つ。また、右手の理学部正面には六高卒業生の仁科芳雄銅像もある。仁科芳雄の銅像に揮毫しているのは湯川秀樹である。岡山大学には旧制第六高等学校の歴史が感じられた。

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 ところで、岡山の東、兵庫県には旧制姫路高等学校があった。旧制姫路高等学校は神戸大学の前身校のひとつであるが、残念ながら姫路の地からはその系譜は失われてしまった。。
 しかし、戦災を受けなかった旧制姫路高校の遺構は、兵庫県立大学姫路環境人間キャンパスにその本館の一部と講堂をみることができる。いつまでも、姫路市民の記憶にかつて存在した旧制高等学校を残して欲しいものである。

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旧制姫路高等学校講堂