星の呼び名

 満天の星ならずとも、星の輝きに惹かれる人は少なくないのではないだろうか。けれども、星を見て、その名を呼べる人は限られる。これは、多くの星の名前が外来語のため、つまるところ片仮名の名前が頭に残りにくいからではないだろうか。

 星空は人類の歴史の中でほとんど変わっていない。また、地球上どこでも緯度が同じなら同じ星たちが見られる。もちろん日本でも星に名をつけ観測していた。国内最古の天体観測の記録はおよそ1400年前の飛鳥時代に遡る。しかし、朝鮮半島から伝わった天文学に基づく星の名は、漢語によるもので当時の教養人にはともかく、現在の私たちに親しみにくいことは片仮名言葉と変わりない。

 では、日本人が生活の中で使っていた独自の星の呼び名はなかったのか。実は、全国各地に親しまれた星の名があった。これを特に星の和名と呼んでいる。星の和名の中で今もよく耳にするものに「すばる」がある。これが千年以上の歴史を持つ和名であることを意外に思う人もいるだろう。しかし、プレヤデス星団を表す「すばる」にしても、「すまる」「ごちゃごちゃぼし」「むつらぼし」など多くの呼び名があり、方言の如く全国に分布する。これが、明治の急激な西洋化の流れと昭和のマスメディアの発達の中で急速に失われてしまったのである。

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昇るオリオン座(みたらしぼし)

 この姫路にも多くの星の和名があった。それらを調査した人のひとりに姫路市在住の桑原昭二氏(元姫路科学館長)がいる。桑原氏の調査は特に、播磨、瀬戸内地方に詳しい。多様な星の楽しみ方のひとつとして、桑原氏の調査を基に星の和名に目を向けてはどうだろう。沢山の人に使われることで記憶が未来に伝えられると思うのである。

旧制高等学校の系譜 ~六高記念館~

旧帝大という言葉も死語かもしれない。ましてや旧制高等学校の実態を知る人はどれくらいいるだろう。字ずらそのままに昔の高等学校と考えると大きな誤解を生む。まず、旧制高等学校は男子校である。次に昭和初期の同年代の人数に占める旧制高校進学者は0.3%程度である。いささか乱暴だが、現在のセンター試験受験者が50万人として0.3%とは1,500人にすぎない。恐ろしく狭い門であり、帝大入学を前提とするエリート養成の高等教育機関であったといえる。そして、旧制高等学校の多くは、戦後、大学の礎を担うことになり現在に至っている。

 六高記念館は、旧制第六高等学校の同窓生の遺族から寄贈された遺品を収蔵、公開し、六高の学生生活を伝えている。

 第六高等学校は、現在の岡山大学の前身校のひとつで特に基礎学問である理学部、文学部の源流といえる。現在、岡山大学の本部や理学部等が置かれている津島キャンパスは、旧陸軍第17師団の跡地で、戦後旧陸軍48部隊の駐留軍引き上げにあたり、六高最後の校長であった黒正巌が六高生を動員して占拠、岡山大学の拠点とした場所である。このため、六高の跡地は岡山大学に継承されず現在は岡山県立朝日高等学校になっている。

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岡山県立朝日高等学校

 旧制高等学校の校地を引き継いだ敷地は広大で威風堂々としている。残念ながら昭和20年の空襲で校舎の多くは焼け、現在は書庫と柔道場が現役で使用され当時を物語っている。

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 そんな朝日高等学校の敷地内に六高記念館がある。

 建築費は同窓生等の寄付によったとのこと。中に入ると、当時の写真が掲げられ2階には運動部、特に柔道部を中心としたカップやメダルも見ることができる。1階奥の資料室には、写真を中心に学生生活や学校の歴史がファイルにまとめられ、それとは別に卒業アルバムも見ることができる。書棚には教科書や関連図書も見られる。

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六高記念館正面

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六高記念館玄関

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資料室

 また、壁面には戦没者の遺影が並ぶ。卒業生の進学先は東京帝大と京都帝大が2分していたというが、東京帝大の文科卒業生の戦没者が際立つように感じた。

 戦後、岡山大学の一部としてその系譜を残した六高だが、岡山大学の正門を抜けると右手に理学部、左手に文学部等が連なり、正面の時計台を持つ図書館前に、津島キャンパスに六高を引き継いだ黒正巌銅像が立つ。また、右手の理学部正面には六高卒業生の仁科芳雄銅像もある。仁科芳雄の銅像に揮毫しているのは湯川秀樹である。岡山大学には旧制第六高等学校の歴史が感じられた。

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 ところで、岡山の東、兵庫県には旧制姫路高等学校があった。旧制姫路高等学校は神戸大学の前身校のひとつであるが、残念ながら姫路の地からはその系譜は失われてしまった。。
 しかし、戦災を受けなかった旧制姫路高校の遺構は、兵庫県立大学姫路環境人間キャンパスにその本館の一部と講堂をみることができる。いつまでも、姫路市民の記憶にかつて存在した旧制高等学校を残して欲しいものである。

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旧制姫路高等学校講堂
 
 

星はすばる?

長く星空を舞台に仕事をしていると、「好きな星は何ですか?」と聞かれることがある。実は、私自身はあまり意識したことがなく、大概は答に窮してしまうのだが、みなさんはどうだろう。

今から千年程の昔、清少納言は、「星はすばる。ひこぼし。ゆうづつ。よばひ星、すこしをかし。」と枕草子に記した。清少納言にとっては、何をおいてもすばるが一番だった訳だ。

枕草子と言えば、冒頭の「春はあけぼの」に続く四季の段を中学校で学んだ人も多いだろう。四季の段に現代の私たちが共感を持つことから推し量ると、「星はすばる」という気持ちも、少なくとも平安の都においては誰にとっても的外れなものではなかったように思う。

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にも関わらず、今の私たちにはすばるの美しさを感じることが少ない。これは、すばるの姿が千年の間変わっていないのに対し、背景の夜空が明るくなってしまったからだ。輝星の多い冬の夜空にあって、なぜ微かな存在のすばる清少納言が選んだのか。答えは満天の星を見上げれば実感される。他の星たちが独立した存在であるのに対して、微妙な明るさの星たちが絶妙な範囲に集まる姿に自然に目が行く。このことは、古代より中国でもインドでもすばるが独立した大切な星として扱われていたことからも納得される。さらに、日本では冷たい冬の空気の中にあって、明るい星がキラキラ冷たく輝くのに対して、ぼんやりと見られるすばるには他にない暖かさすら感じられる。やはり、星はすばるなのである。

1月上旬の20時頃、頭上を見上げて欲しい。今も澄んだ冬の夜空なら、ぼんやり光るすばるにはっとさせられるかもしれない。

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オリオン座からすばるまで

 

天・文学の発見

 「文」の字には、文字、書いたものといった意味があり、文学とは正にそういった類を扱う学問である。また、「文」には現象という意味もあり、天文学とは、天の現象を扱う学問となる。文学と言えば人文系学問の雄であり、片や天文学は理系の代表的学問のひとつである。しかし、この2つには単に文字面が似ている以上の親和性を感じるのはなぜだろう。

 

 兵庫県の伝統工芸品に杉原紙がある。これは、英文学者であり和紙研究家であった寿岳文章(1900-1992年)により再興のきっかけを得たものである。寿岳文章の和紙研究に影響を与えた人物に京都大学名誉教授の新村出(1876-1967年)がいる。新村出広辞苑の編著者として知られている。新村出実弟である関口鯉吉(1886-1951年)は、東京帝国大学教授時代に東京天文台日本天文学会理事長を歴任した天文学者である。また、新村出も宇宙に強い関心があったようで、自身を京都の自宅の住所から紫野天文台と称していたそうである。

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杉原紙研究所に隣接する寿岳文庫

 そんな新村出は昭和37年(1962年)に京都大学花山天文台で観月している。新村出を招待したのが、当時の花山天文台宮本正太郎夫妻であった。時代は戻るが、寿岳文章の長男は、京都大学理学部宇宙物理学教室にて宮本正太郎に学び昭和25年(1949年)に卒業し、天文学者となった。

 

 大学進学者が少なかった頃、いわゆる学者一家が様々な分野を志すことは自然なことかもしれない。しかし、天文学も文学も、つまるところ古代より人間が関係を断つことのできなかったもっとも古い学問としての共通項が認められないだろうか。

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箱に天の川がデザインされた広辞苑第5版(1998年発行)

 

天空の大道を想う

 茜色に染まった空が色を失う頃、西に輝く宵の明星から東に向かって3つの明るい星が連なる様子が見られる。西から、金星、木星、そして7月31日に最接近した火星である。これら惑星は、星座の中を各々刻々移動する。そこで、この景色も今年限定である。

 金星は、星々の中で最も明るい輝星で、木星はそれに次ぐ。ただ、今年は火星大接近の年であるため、その最接近前後は火星の輝きが木星を凌ぐ。3輝星が整列しているのだから目を惹かないはずがない。

 慣例的に、明るく目立つ星を1等星と呼ぶ。夏の夜空では、夏の大三角を形作る星や南の空に赤っぽく見られるさそり座のアンタレスがそうである。木星や火星の明るさに比べれば精彩を欠くが木星と火星の間には、土星も1等星の明るさで輝き星の連なりを補っている。あたかも原野に1本の大道が走っているかのようである。実は、これは偶然ではない。

 太陽系の天体は、太陽を中心にほぼ1枚の盤上を転がるように運動している。地球も月も同じ盤上を公転するため、地上から見た惑星や月、太陽は夜空の見えない道を辿るように動いていく。特に太陽の道筋を黄道、月のそれを白道と呼ぶが、各惑星の道筋も大きくは外れない。

 天空に惑星たちの連なりを感じることは、太陽系の姿を地上から意識したことに等しい。いわば、地上の夜景に連なる車の明かりを見て、見えない道路の存在を意識するようなものである。月が時折、大道の惑星たちを結ぶように足早に移動していく様子が、一層、想像を容易にしてくれているようで頼もしい。夜空を見上げて、宇宙の営みを想うことは、とても楽しい営みではないだろうか。

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金星の傍らを通りかかった月 (2018.7.16撮影)



西郷隆盛と火星人

 今年は明治150年ということで、明治の出来事がしばしば話題に上る。NHK大河ドラマの「西郷どん」もこの系列であろう。

 西郷隆盛(1828-1877)は、明治10年西南戦争で落命した。9月24日のことである。火星大接近のこの年、9月2日に火星が最接近している。ちょうど城山で西郷が最期を迎えようとしている頃、輝度を増した火星が宵の空に見られたわけだ。調べてみると、同じ頃、西の空には木星が輝いており、火星の近くに土星も見られた。通常、木星は金星に次ぐ輝星であるが、火星大接近の前後には火星が木星の輝きに勝る。当時の人が驚きをもって、夜空を眺めたことは想像に難くない。この赤い輝星に望遠鏡を向けると西郷の姿が見えるといった噂まで広がり、西郷星と呼ばれた。

 全く同じ頃、イタリアでは天文学者スキャパレリ(1835-1910)が火星を天体望遠鏡で観測し、火星の地形に名前を付けていた。この際、従来より知られていた線状の模様をイタリア語で溝(canali)と呼んだ。これが運河(canals)と英訳されたことが物議を醸した。運河を作る知能の高い火星人の存在が議論されることになったのである。特にアメリカの天文学者ローウェル(1855-1916)は多数の運河が描き込まれた火星図を残している。

 現在、スキャパレリの名付けた地名は火星図に残るが、ローウェルの描いた運河はことごとく否定されてしまった。西郷隆盛の姿も火星人の運河も幻ではあったが、当時を思って火星を見るのも一興だろう。今年の火星最接近は7月31日である。1877年同様、西の空には木星が輝き、さらに明るい火星が目を惹くはずである。

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写真 西郷星を描いた錦絵(画:梅堂国政,1877年)

火星大接近に重ねる思い出

 今年は火星大接近の年にあたる。前回2003年には、「火星6万年ぶり大接近(雑誌ニュートン臨時増刊号)」などと言われ大騒動であった。前々回の火星大接近は1988年のことで、学生だった私は岐阜県の飛騨天文台で明るい火星を観察した。その時の65cm屈折望遠鏡は、それまでの私の人生で覗いた最大の天体望遠鏡で、巨大な望遠鏡を覗けたことが感激だった。その前、1971年の大接近は、私が意識して星空を見上げる3年前のことで、全く記憶にない。つまり、今年の火星大接近は私の人生で3度目のイベントということになる。

 火星の大接近は、規則正しく太陽の周りを回る地球と火星の運動において、火星が軌道上のどこで地球に追い越されるかで決まる。およそ15.6年で繰り返される現象である。しかし、それを目にする私たちは、その都度、人生の違うステージでそれを迎える。そして、繰り返し忘れた頃にやってくる大接近に思い出を振り返ることができる。

 火星大接近は、星空に目を向けることで容易に知ることができる。是非とも、次回、次々回の大接近の際に、夜空に明るく輝く火星を見上げて、今年の自分を振り返ってみたい。「この前の、火星大接近の時は周りにあんな人がいて、こんなことをしてたな。」と。